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部員の声「護身術の強さ」(57期 和田島周星)

部員の声

新入生の皆さんはじめまして。
東大少林寺拳法部ホームページを開いてくださりありがとうございます。

今、当部ホームページを覗いてくれている新入生の方は、わざわざここに来たということですから、多くの方が少林寺拳法に興味を持ち、少林寺拳法を始めてみたいと思っているのではないでしょうか。ちょうど入部を検討しているところ、他の部活と迷っているところという方もいるかもしれません。

この部活に興味がある、入部したいと思うからにはやはり皆さんに動機や理由があると思います。

あなたの動機はなんでしょうか……?

本ホームページの「部員紹介」では各部員の入部した理由が書かれています。(他にも部員それぞれの生態や部への思いが書かれています。興味のある方はこちらから覗いてみてください。)その中でも特に多い理由が、「武道への憧れがあるから」と「強くなりたいから」のように感じます。
今この投稿を読んでくれている新入生の方もそうかもしれません。

しかし「武道への憧れがある」と言っても、「なぜ武道を学ぶのか」については考えている人は少ないと思います。かく言う私もそうでした。

なぜ武道を学ぶのか?
強くなりたいからでしょうか。

では「強くなりたい」と思ったとして、ここでいう「強さ」とはなんでしょうか。喧嘩で勝つための「強さ」?自分の身を守るための「強さ」?それとももっと違う何か?

これから武道を始めようと思っている人でここまで考えている人はなかなかいないでしょう。

私は大学から少林寺拳法を始めてちょうど3年になりますが、「少林寺拳法で身に付く強さとは何か」、「なんのために少林寺拳法を学ぶのか」についてようやく考えるようになりました。この質問には人それぞれに答えがあると思いますが、私個人の回答を書いていきたいと思います。

その前に先ず前提として少林寺拳法の特徴について軽く触れておきます。

第一に少林寺拳法は日本発祥の武道だということです。
よく勘違いされる中国武術のあれでもなければ格闘技でもありません。武道ですので、戦いによって優劣をつけることや敵を傷つけることを目的としたものではなく、心身ともに健全な自己をつくり余裕のある人格を育てるためのものです。

特に少林寺拳法の場合、「不殺活人」といって相手を殺傷することなく強烈な痛みを与えることで相手の戦意を失くすことを特徴とします。それはつまり、闘争を求め勝ちにこだわるのではなく、自分だけでなく周りの人も大切にできる人格を育成するためのものだといえるのです。

ここで新歓の目線に立ってどんな新入生にこの部をおすすめしたいか考えてみると、少林寺拳法は(実戦競技もあるのでもちろん闘うことが好きな人にもおすすめしたいですが、)闘うことが怖い人や苦手な人でも、心身ともに強くなりたいという人におすすめできるものということになります。

もう1点触れておきたいのが、少林寺拳法は護身術としても使える武道であるという点です。
少林寺拳法には約600種類の技法があります。顔面を殴りかかってこられたときの技法、お腹を刃物で刺されそうになったときの技法、胸ぐらを掴まれて押されたとき、逆に引っ張られたとき……。
遭遇しうるさまざまな場面に対応できるようになっています。
そしてこれらにはある共通点があります。(一部例外はあります。)
それはどれも「自分から手を出さない」ということです。これは「守主攻従」と呼ばれ、相手から攻撃を仕掛けられたときのみ自分の身を守るために使って良いという考えです。まさに自分の身を守るための技術といった感じです。

再び新歓の目線に立ってみます。
少林寺拳法では自分より体格が優れている人が襲いかかってきたとき対処できる術を学びます。なので非力な人や女性にもオススメできる武道なのです。先程と同様、少林寺拳法は闘うことが怖い人や苦手な人でも、心身ともに強くなりたいという人に勧められるものであると言えると思います。

少林寺拳法の特徴がわかったところで、本題に移りたいと思います。
少林寺拳法で身につく「強さ」とはなんなのか。もう半分答えが出ているような気がします。少なくとも、嫌いな人に出会ったときに役立ちそうな「喧嘩のための強さ」や、格闘技のような「闘いで優劣のつけられる強さ」ではなさそうです。

「少林寺拳法」で Google 検索したときに、だいたい4、5番目くらいの検索候補に「少林寺拳法 弱い」が出てきます。少林寺拳法をやってる身からするとこれほど悲しいことはないですが、ここでいう「弱い」は「喧嘩が強い」、「闘いで優劣をつけたとき強い」の対義語としての「弱い」の意味でしょう。我々が求めている強さとは関係なさそうです。

「弱い」には「技術不足」の意味も込められているかもしれません。しかし大学で少林寺拳法をやっている限りは心配はいらないように思います。というのも実戦形式の「運用法」が大会競技として取り入れられており、特に東大少林寺拳法部はかなり力を入れています。有効で力強い突き蹴りや実戦の駆け引きを十分に身につけることができると思います。

武道の本来の目的が健全な自己を作ることならば技術不足では話になりません。ここで言いたいことは「強くなる」ためには「技術的に強くなる」ことが必要であるということです。

運用法について触れたので演武にも触れておきましょう。「演武」とは、決められた攻防を表現する所謂「型」のようなものです。

先程の「少林寺拳法 弱い」に通ずる話として、これまた悲しいことに、少林寺拳法のことをダンス拳法と言われたりします。やはりこれも同じで、武的に「技術不足」であるということでしょう。であればそういう風に見えてもおかしくありません。

しかし「演武」は「演舞」とは書きません。「武」を「演」じるものです。実際見てもらえばわかるのですが、練習や研究を重ねられた洗練された演武は、本当に 2人が闘っているかのような迫力があります。少林寺拳法を知らない人が初めて演武を見たとき、本当に闘っているのだと勘違いしてしまうということがよくあります。

そこが演武をするものの目指す極地であり、そのための技術を日々身につけるのです。実戦形式が型になっただけで「技術的に強くなる」という点では運用法と何も変わりません。

強くなるためには「技術」が必要ということがわかりました。しかしその強さは「喧嘩のための強さ」や、「闘いで優劣のつけられる強さ」ではありません。「強さ」とはなんなのか。これについて日常生活に落とし込んで考えてみます。

あなたにも一定の必要な技術が備わったとします。実際大学で3年ほどやってれば全員黒帯になりますし、満遍なく真面目にやってれば黒帯に恥じない程度の技術はつきます。しかし、少林寺拳法で身につけた技術が日常生活で役に立つ場面はほとんどありません。約600種類の技法があるといっても、殴りかかってこられたり、胸ぐらを掴まれたりということは滅多にないでしょう。

役に立たない技術がついただけであなたは強くなったと言っていいのでしょうか。少林寺拳法を続けてきた意味はあるのでしょうか。

もちろんあります。少林寺拳法や武道の本来の目的は、心身ともに健全な自己をつくり余裕のある人格を育てることでした。

護身の技術を身につけたとして、それを実際に使える場面に遭遇することがないとしても、技術があるというだけで少し心の余裕が生まれるはずです。

例を挙げるとするならば、道端で急に殴りかかってこられることはまずないでしょうが、もしそうなっても反射で目をつぶるより前に身体を捌いて防ぎきれるくらいの自信を持って街を歩けると、見えてくる景色も変わってくるかもしれません。今でこそパワハラは減ってきているかもしれませんが、社会に出て自分より強そうな上司にビビって何も言えなくなるよりは、自信を持って提言できるくらいの心の余裕があったほうが良いに決まっています。こんな風に役に立ちそうな場面はたくさんありそうです。

ここまでダラダラ書きましたが言いたいことは要するに、護身術として少林寺拳法を学ぶ意義は必ずしも物理的に自分の身を守るためというわけではないということです。

そして自分の身を守れることが求めるべき「強さ」というわけではなく、そこから生まれる自信を根拠とした心の余裕を持てることが、求めるべき「強さ」ということです。自分も含め「強くなりたい」と言って入部した人は、心の奥底ではこういう気持ちがあったのではないかと勝手に想像しています。

学んだことをいつか役に立てなければと気負う必要もありません。役に立たないからといって気を落とす必要もありません。とりあえず真面目に続けてみるのが一番だと思います。頑張っていきましょう。

私は渋谷を散歩することが多いのですが、渋谷を歩いているとよく知らない人に道を尋ねられます。渋谷に詳しそうなオーラが漂っているのかもしれません。昔は話しかけられるのが苦手で毎回知らない人に対してビビっていた私ですが、今では寧ろその人の役に立ちたいとさえ思えます。まだまだ道半ばですが少林寺拳法を続けてきたことによる変化はあったようです。

57期 和田島周星

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